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欧州でデジタル製品パスポート(DPP)の義務化が進むなか、ファッション業界は新たな転換点に立っている。トレーサビリティやカーボンデータの開示は、もはや「やるべきこと」として広く認識されつつある。しかし、消費者が実際に使いたくなるDPPをつくる企業はほとんど存在しない。多くのブランドが提示するのは、原材料や調達、製造データや認証情報などが並ぶ“コンプライアンスのためのページ”であり、そこに感情的価値や体験の魅力はほとんどない。
その状況を根本から変えようとしているのが、H&M財団による「グローバル・チェンジ・アワード 2026」を受賞した 「アル(Alu)」だ。 この賞は、ファッション界のノーベル賞とも呼ばれ、受賞者は世界的な注目を集める。アル が評価された理由は、DPPを「エンゲージメントのインフラ」として再定義し、消費者の行動変容を中心に据えた点にある。

創業者でCEOのドナテラ・ベローネ氏(以下、ドナテラ)は、DPPを単なる「データの入れ物」ではなく、「ブランドと消費者の関係を再構築する“体験のレイヤー”」として捉えている。今回、Shift Cのために行ったインタビューでは、彼女が語る未来像は驚くほど明確で、そして人間的だった。キーワードは、「モチベーション(感情)」、そして「コミュニティ」。ファッションの循環型モデルを語るとき、これほど人間の心理に踏み込む言葉を聞くことは珍しい。

Photo: Shea Gupta
行動は「知識」では変わらない──変えるのは“環境”と“感情”
インタビューの冒頭、ドナテラは、人の行動が変わるための本質について語った。
彼女が強調したのは、行動が変わる理由は「コンテクスト」と「モチベーション」の二つが必須という点だ。
ここでいうコンテクストとは、行動を可能にする条件や設計(行動条件)のことである。 便利かどうか、面倒でないか、日常の流れの中で自然にできるか。つまり、行動のハードルをどれだけ低くできるかという「設計」の問題だ。再販や修理、レンタルが「摩擦なくできる」ことは、行動変容の前提条件になる。
一方、モチベーションはもっと人間的で、もっと繊細だ。アイデンティティ、所属感、感情的価値など、自分らしさやコミュニティとのつながりが、行動を促す力になる。ここには、「手頃さ」のような実利的な価値も含まれる。感情的価値だけでなく、総合的な価値が行動を後押しする。
そして、この二つの視点こそが、従来のDPPが見落としてきた領域でもある。多くのブランドは「正しい情報を提示すれば行動が変わる」と信じてきた。しかし、実際には知識だけでは人は動かない。ドナテラが複数のブランドからヒアリングした情報によると、QRコードなどでDPPの案内を見てもスキャンされず、DPPの消費者利用率は1〜5%に留まっている。
DPPが本当に機能するためには、 行動条件(コンテクスト)と感情(モチベーション)の掛け合わせを設計することが不可欠だ。 つまり、行動変容の本質を理解することは、DPPを「使われるもの」に変えるための最重要ポイントなのであると、ドナテラは語った。
コミュニティが行動を変える──“人間同士のつながり”が価値になる時代
ドナテラは、現代の消費者が置かれた環境を鋭く捉えている。AI生成コンテンツの氾濫やSNSの大量のインフルエンサー投稿。人々は「誰かの真似をする」ことに疲れ、もっとリアルで、もっと人間的なつながりを求めている。
彼女が語った重要な言葉は「他の人間とつながることが価値になっている」というものだ。
「DPPを通じて、同じブランドを好む人の修理や再販の行動が見えるようになると、それは強力な社会的証明(ソーシャルプルーフ)になる。他の人が修理している、再販している姿を目にすることで、循環行動は「普通のこと」として受け入れられるようになる。」と説明した。
この「普通になる」という感覚は、行動変容において極めて重要だ。人は孤立した行動よりも、集団の行動に引き寄せられる。
では、「アル」の機能として、それをどのようにDPP内で実装するかというと、ブランドごとにまったく違う、と言う。ブランド側は、「ブランドらしさ」と、「消費者がそのブランドを好きな理由」の両方を強化する必要がある。そのため、あるブランドはストーリーテリングや修理を重視し、別のブランドはコミュニティやイベント参加を重視する。また、別のブランドはロイヤリティやゲーミフィケーションを重視するとのことだった。
どのアプローチでも最終的には「消費者の感情的な側面」に働きかけている。

既存DPPの“上に乗る”──ブランドの資産を統合し、行動が起きる瞬間に価値を届ける
「アル」の特徴を聞き進めると、多くの企業が既に導入しているロイヤリティプログラムなどと重複しているのではないか。また、既に欧州をはじめDPPを導入している企業も増加している中、完全な置換となればハードルが高いのではないか、と疑問が湧いた。そのことについて聞いてみたところ、「既存のDPPを置き換えるのではなく、エンゲージメントのレイヤーとして「アル」は追加出来る。ブランドが既に持つロイヤルティやCRMともAPI連携し、既存の資産を最大限に活かす。」と、頼もしい答えが返ってきた。
QRコードをスキャンすれば、2〜3クリックで再販が開始できる。修理も、コミュニティ参加も、ロイヤルティも、すべてがひとつの体験としてつながる。
ドナテラが語った重要な言葉は「行動が起きる瞬間に存在する」というものだ。「もう使わないかもしれない」「手放そうかな」というタイミングで、DPPが“そこにある”ことが重要なのだ。
ブランドは中古市場に負けている──最大の競合は“自社の過去コレクション”
インタビューの中で特に印象的だったのは、ブランドが直面している競争環境についての指摘だ。ドナテラは「ブランドの最大の競合は他社ではなく、自社の過去コレクションになる」と語った。
これはすでに現実になりつつある。 フランスでは、中古プラットフォーム Vintedが“最大のブランド”になっている。人々は新品ではなく、中古を探す。新品より安く、選択肢が多く、そして何より「新しさへの欲求」を満たしてくれる。
DepopやPoshmarkのような二次流通プラットフォームは、すでに消費者の習慣として定着している。ブランドが再販を始めても、消費者はそちらを使い続ける。しかし、ブランド再販には「信頼性」という強みがある。認証されている、偽物の心配がないといった価値は大きい。
ブランドが中古市場に参入することは、もはや選択肢ではなく必然だ。 中古市場はブランドが作った過去の商品で利益を得ている。ブランドがその価値を取り戻すためには、循環モデルへの本格的な参入が不可欠である。
“価値あるDPP”が必要──認知が広がるほど「つまらないDPP」は使われなくなる
ブランドのDPPはなぜ消費者に使われていないかというと、「価値が感じられない」からである。QRコードを見ても「何これ?」で終わり、スキャンしても供給網データやカーボン情報が並ぶだけで、消費者にとっての価値がない。
ドナテラが語った重要な指摘は「認知が広がる前に価値あるDPPを作らないと逆効果になる」というものだった。
価値のないDPPが広まるほど、誰もスキャンしなくなる。DPPが「価値を感じにくいもの」として認識されてしまえば、ブランドはその後取り返しがつかない。
だからこそ、「アル」 がつくるのは「価値があり、魅力的で、使いたくなるDPP」だ。コンプライアンスのページは必要最低限にとどめ、修理・再販・コミュニティ・ロイヤルティを統合した“体験”としてのDPPを設計する。
AIは“行動を促す”ために使う──ハイパーパーソナライゼーションと修理判定
「アル」はAIネイティブ企業であり、AIはバックエンドとフロントエンドの両方で使われている。
バックエンドでは、サプライチェーンデータの収集や書類の確認、不足データの特定など、DPPの準備プロセスを効率化する。フロントエンドでは、AIはユーザー体験を最適化し、より多くの循環行動への転換を促すために活用されている。
ハイパーパーソナライゼーションはその代表例だ。「6ヶ月使っていません。今ならこの服は$100で売れます。」といった個別のナッジが、行動を促す強力なきっかけになる。
また、写真をアップロードするとAIが修理箇所を自動判定する機能もある。修理のハードルを下げることで、循環行動を自然に後押しする。
人々は“服とのつながり”を取り戻す──WheringとAltaが示す兆候
インタビューの終盤で、ドナテラは希望に満ちた未来を語った。
彼女が語った重要な言葉は「人々は自分のクローゼットと再びつながりたいと思っている」というものだった。
その兆候はすでに現れている。 デジタルワードローブアプリ Wheringは、ユーザーが自分の服をデジタル化し、着用頻度やコーディネートを管理できるサービスで、直近、eBay VenturesとGoogle AI Futures Fundから700万ドルの大型調達を受けた。 同じ領域のAltaも1,100万ドルの調達を行い、急成長している。
これらのサービスが示すのは、「人々は自分の服をもっと使いたい」という強い欲求だ。 最新トレンドではなく、自分を表す服を持ちたい──その価値観が広がっている。
消費行動の二極化と政府規制──循環型モデルは「必然」になる
ドナテラは未来を「消費行動の二極化」と表現した。 超ファストファッションが残る一方で、個性やアイデンティティを重視する層が伸びる。 その二極化が進むという。
さらに、EUでは、売れ残った衣料品や履物の廃棄を制限・禁止する制度が導入され、新しい生産量は減らさざるを得ない。政府規制が循環型モデルへの移行を後押ししている。
循環行動が伸びている理由は、環境のためではない。人々の生活価値に合っているからだ。リセールが伸びている理由は、安さやコミュニティといった価値。レンタルが伸びている理由は、手軽さ、便利さ、体験価値といった理由から。これらが人々の行動を動かしている。
循環型モデルは「選択肢」ではなく「必然」だ。 ブランドはこの変化を無視できない。
人々は服と再びつながる
その未来を支える重要な役割を担うのが、エンゲージメント型DPPである「アル」だと感じた。
ドナテラが語る未来は、サステナビリティの義務ではなく、人々の価値観の変化から自然に生まれる世界だ。 個性、感情、コミュニティ。そして、服とのつながり。 DPPはその未来を支える“体験のインフラ”になる。
「アル」がつくろうとしているのは、単なるデータページではない。 人々が服をもっと愛し、もっと使い、もっと楽しむための新しい循環体験だ。
Shift Cの読者にとっても、この変化はすでに始まっているはずである。
出典
*https://hmfoundation.com/gca/about-global-change-award/