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テキスタイルデザイナーとして全国の工場と連携し、日本の高品質なテキスタイルを海外トップメゾンに紹介してきた梶原さん。国外に向けた“売り手” として長らく活躍してきたが、KAJIHARA DESIGN STUDIOの設立から20年となる節目にブランドを立ち上げ、 “買い手” として工場へ発注する立場となった。
その新しい出発のストーリーを分かち合ったのが、一ノ瀬メイさんだ。パラ水泳選手として9つの日本記録をもち、引退後はスピーカー、俳優、モデルとして新しいフィールドに転向し、挑戦を続けている。
共通するのは 「どちらもアスリートなこと!」 というファッションジャーナリストの向 千鶴さんの司会のもと、ふたりのトークが始まった。

だれかが動くのを待つだけでなく、自ら挑戦していきたい
梶原さんが会社を立ち上げた2006年当時、「テキスタイルデザイナー」という肩書は日本では一般的ではなかった。「日本では技術者の方がいれば作れると思われていて、そこにデザイナーが必要とされるのか悩むほどでした」と梶原さんは振り返る。
以来、生産から営業、販促まで総合的に関わりながら、産地でデザインを共に考え、海外へ提案してきた。日本のハイクオリティの生地をヨーロッパやアメリカのトップメゾンへ。それが長らく業界全体の目標であり、梶原さんの役割だった。
その梶原さんが今、自身の名を冠したブランドを立ち上げたのには、コロナ後に広がった価値観の変化があるという。従来通りに作って売る方法が、価格・納期・在庫いずれの面でも通用しにくくなってきたこと。パリをはじめ世界各地で小さなブランドが生まれ新たな潮流となっていること。そして何よりも、日本の産地から聞こえてきた切実な声だ。
「日本の産地の職人さんと話していると、70代、80代の方が『発注が少なくなったら、もうやめたいんだよね』とおっしゃる。私、この生地がすごく好きなのに、職人さんがやめたら作れなくなる…その危機感がすごくありました」

市場価格に合わず時間もかかる技術は、どんなに素晴らしいものでも世に出ずに埋もれてしまう。だれかの発注を待っているだけでは、間に合わなくなる。それならば発注する側に回ればいい、と梶原さんは立ち上がった。
「『産地活性』っていっても綺麗ごとじゃなくて、デザインでできることなんてちょっとだけなんです。本当に発注する企業や人を増やさなきゃいけない。だから、それを誰かにお願いするんじゃなくて、自分自身がそこに突っ込んでいこう、と」
司会の向さんは事前にこの話を聞き、「産地に発注するために自らブランドを作るんだ、という梶原さんの決意を聞いて、絶対にこのトークショーの司会をしたいと思ったんです」という。
「対談相手として『挑戦している人』を考えたときに、まず思い浮かんだのが一ノ瀬メイさんでした」
指名をうけた一ノ瀬さんは、彼女にとって水泳は『手段のひとつ』だったと明かす。
「私は生まれつき右手が人より短くて、できることでも、周りから勝手に『できない』と決めつけられる経験をたくさんしてきました。スイミングスクールに入れなかったり、日本記録をもっていてもスポーツ推薦をもらえなかったり。人と違う身体で生きていく中で、人の思い込みや社会の構造によって制限されることが、めっちゃ悔しくて」
そんな社会の壁をなくすために、まずは自分の「声」を得ようと選んだのが水泳だった。メダルも記録も、あくまで手段。競技を退いた今もその思いは変わらず、手段をモデル・俳優・トークに替えて、障壁をなくすために活動を続けている。
「だれかが変えてくれるのを待つのではなく、自ら飛び込む」。そこがふたりに共通する出発点だった。

「息継ぎ」は長距離走のためだけにある
前例のない挑戦をする人たちに必ず必要なのが「息継ぎ」だ。これが今回、梶原さんがぜひ話したかったテーマだという。描く理想が高ければ高いほど、「まだ足りない」という満たされない思いと折り合いをつけ、ほどよく息継ぎをしながら進んでいかなければならない。
「息継ぎ」について、一ノ瀬さんは水泳選手の実感からこう説明する。
「水泳では、息継ぎしている時が一番進まないんですよ。水の抵抗がかかる。だから本当は息継ぎをできる限りせずに泳ぎ切るのが、タイムとしては一番速い。でも、それができるのは25mか50mだけで、100m、200mと長距離になるほど、息継ぎをしないと後半まで泳ぎ続けられない」
これが人生にそのまま重なる、と一ノ瀬さんは言う。
「人生って、スプリントじゃなくて長距離だと思うんです。余裕があるからといって全力で飛ばしていっても、いつかしわ寄せがきたり、気持ちがしんどくなってしまう。だから計画的に立ち止まって、ちゃんと息をする。今の私にとっては、ジャーナリングをしたり、ジムに行ったり、それが息継ぎです」
一方、梶原さんにとっての「息継ぎ」は、止まることではないという。
「息継ぎするって、休むことだけを意味するとは思っていなくて、自分にとっては“続けること”と同義だと思っているんです」
物心ついた頃からこの道を目指し、休みなく動き続けてきた梶原さん。よく「休まなくて大丈夫?」と聞かれるが、土日こそあれもこれもできる!とワクワクしながら働いている、と笑う。それでも折れないのは、走りながら休むコツを身につけたからだ。
「最近よく聞く言葉で言うと『メタ認知』に近いですかね。自分の脳がどう動いているかを客観的に見て、ネガティブなことや苦しいことを考えていたら『それは違うかもしれないから、気持ちいいことを考えよう』と切り替える。苦しい思考をストップして、ストレスをかわしている感じです」
そんな梶原さんに「代表監督とかコーチをやったらいいのに(笑)」と一ノ瀬さんは応えつつ、自身の「脱力」はキャリアの変化とともに反転したと明かす。
「私の場合、アスリート時代は動くことが仕事だったので、『止まること』が脱力でした。でも今は、頭を使って仕事をすることが増えたので、逆に脱力方法は運動なんです。ジムに行ったりヨガをしたり、体にフォーカスすることで頭がすっきりするんです」

19歳、真っ暗な海の上で感じたこと。自分の道がどこに続くか怖かった
走り続ける形が違っても、ふたりが「息継ぎ」を意識的にデザインしている点は共通する。
「何かをやりたいという思いが強い人ほど、常に苦難が続いているんじゃないかなと思うんです。目標があればあるほど、満たされない思いを持ち続けるので。私もよく『99%苦行なんです』と言っちゃうくらい」
そう語る梶原さんが、なかでも「一番辛かった」と振り返るのが、18〜19歳の頃だ。テキスタイルデザイナーになるために美大へ進みたい、と決意したものの、家族をはじめ周囲は猛反対。自分で資金をつくって、地元の北海道を出るしかなかった。
「小樽から舞鶴へ向かってフェリーが夜に出るんですけれど、海が真っ暗なんですよ。自分がどこにいるか、方向も分からなくなる。その暗い海の上で『自分の人生どうなっちゃうかな、目指したいことができるかな』と考えていた時期が、一番辛かった」
その話に、一ノ瀬さんが強く頷いた。
「めっちゃわかります。加奈子さんのお話を聞いていてすごく共感するのは、高い目標を掲げれば掲げるほど、自分が理想としている場所と、今の自分が立っている位置とのギャップに苦しむということ。パラリンピック出場を掲げて、それを叶えたら次はメダル、さらにはメダルの色と、ずっとエンドレスに『何かが足りてないんじゃないか』という焦りが追いかけてくる」
「人と比べると自己肯定感が下がると言われますけれど、アスリートはそうやって競い合うことが仕事。あの人はこんなにできているのに、自分はこれだけのタイムしか出せない、と。どれだけ努力しても満たされない時期が、一番辛かった」

その時期を抜ける転機になったのが、お父さんの一言だったという。
「『その調子じゃ、どこまで行っても満たされないよ』と言われて。9歳でパラリンピックを夢見て、19歳のリオデジャネイロ大会で実現した──その10年に、まずは誇りを持ちなさい。そこにちゃんと満足感を感じないと、いつまでも幸せを感じられないよ、と」
「パラリンピックに行けなかった人は行きたかっただろうし、決勝に残れなかった人は残りたかった。銅の人は銀が欲しくて、銀の人は金が欲しくて、金メダルを取っても2冠したくて……そうやってないものばかり追いかけていたら満たされない、と。私はそこがターニングポイントになって、考え方が変わりました」
肩書きは与えられるものではなく、宣言するもの
さまざまな点で共感するふたりだが、この日のトークでわかったもうひとつの共通点が、前例のないポジションに、自分で名前を付けてきたということだ。
「やりたい目標があったときに、他にやっている人がいないから諦めよう、というのはすごく悔しい。だから、どんなときも『テキスタイルデザイナーです』と名乗り続けたら未来は変わるかな、と。自分で『テキスタイルデザイナー』の名刺を作って、言い続けてきました。今はたぶんテキスタイルデザイナーの範疇を超える仕事をたくさんしているけれど、この言葉を大事に使っていこうと思っています」
一ノ瀬さんにとっての「肩書き」との葛藤は、引退後に訪れた。
「10年間、寝てても言えるくらい『パラ水泳日本代表の一ノ瀬メイです』というアイデンティティで生きてきたし、世間にも知られていた。でも、そこから次の表現、次の手段を模索していくなかで、アスリートから表現者になっている人ってすごく少なくて」
周りからは「誰みたいになりたいの?」と何度も聞かれるが、わかりやすい例は「居いひんねんなぁ」と心の中でつぶやいていたという。
「だから今は講演家、英語ではストーリーテラーですね、そして俳優、モデル。あとは元パラ水泳日本代表ですと、自分のチャンネルを全部開示するようにしています。最終的には『一ノ瀬メイです』で伝わるようになるまで頑張ろうと思っています」
本当に必要なものを知っている人へ。唯一無二のブランドとして
トークの終盤、話は服そのものへ。この日一ノ瀬さんが着ていたのは、「KANAKO KAJIHARA」のTシャツだ。オーガニックコットンに浅野撚糸の特殊撚糸技術「SUPER ZERO」を組み合わせた糸を使用し、約70年前の編み機で時間をかけてゆっくりと編み上げたオリジナル素材。空気を含んだようなふっくらとした風合いと、柔らかな肌触りが特徴だ。
「とてもシンプルなんですけど、『自分の感覚に集中したい人』が着てくれたらどう感じるかな、と想像しながら作ったTシャツなんです。何が心地よいのか、自分の中に深く持っている人。自分を突き詰められるって、ある種のアスリートなんだと思うんですけれど、そういう人はきっと世の中にたくさんいる」
もちろん、梶原さんが考える自分にとっての心地よさは「癒し」だけに限らない。走りながら息継ぎするという彼女だけに、自分を奮い立たせるような高揚感も重要な要素だ。その美学は、「LIVING BALANCE 心地よさと、高揚感のあいだに。」というブランドコンセプトにも表れている。
「私のブランドでは『バランス』をテーマにしていて、リラックスと高揚感、その両方が必要だと思っているんです。交感神経と副交感神経がうまく切り替わることは、健康においてすごく大事。その感覚値でデザインをしていこうと思っていて、一定方向にリラックスするだけじゃなくて、“面白い”と思ったものを素直に出していく高揚感も、ブランドに取り入れています」

ファッションの癒しも、喜びも、似合うものや、自己表現さえも。自身と徹底的に対峙し、必要なものを知っている――梶原さんが服の向こうに思い浮かべている「アスリート的な感覚の持ち主」とは、服の選び方においても、そんな鋭さをもっている人のことだろう。
そうやって服を楽しむ人が少しずつ増えていくことは、おそらく、日本のファッションが次の成熟に進むということでもある。産地の技術に対価が正しく払われ、持続可能な服作りが「良さそうだから」ではなく「自分に必要だから」で選ばれる。ブランドの側もまた、感覚を磨かれた顧客に育てられて、次のものづくりに向かっていく。
そしてこの循環は、言葉で理解するより、袖を通した瞬間に「あぁ、これだ」とわかる種類のもの。感性を研ぎ澄ませ、肌で理解するものだろう。
走り続ける人に寄り添い、力をくれる一着。ぜひ一度、南青山の「KANAKO KAJIHARA」直営店で手に取り、その感覚を確かめてみてほしい。
■KANAKO KAJIHARA 直営店
〒107-0062 東京都港区南青山4丁目23-10 ゴールドペリビル
■オンラインストア
https://kanako-kajihara.jp/