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土地の豊かな恵みを映し出す、ここにしかない酒
一口飲んで、その瑞々しい透明感のある味わいに驚いた。日本酒と一言では括れない、今まで飲んだことのない豊潤でふくよかな複雑味。「S風の森」は、従来の「風の森」らしさを感じさせつつも、この土地の滋味をたっぷり含んだ、他にはない唯一無二の酒だ。

「日本酒とは一般的には米を磨けば磨くほど(*1)おいしいお酒になる、と言われることもありますが、私たちは必ずしもそうではないと考えています。S風の森ではこの場所で育てられたお米の魅力を最大限に引き出すために、ほとんど磨いていません。磨かないとお米の様々な味わいの要素が多く、苦みや渋味といったいわゆる『雑味』とされる味わいも出やすいのですが、その分、甘味や酸味などでしっかりとバランスを取ることで『複雑味』として表現することが出来ます。また、その味わいの要素は田んぼや農法によって異なり、磨いていないことによって、田んぼの個性をしっかり映し出すことが出来る、魅力的な酒を造り出すことが出来ると考えています」
そう話すのは、葛城山麓醸造所(通称「山麓蔵」)で醸造責任者を務める中川悠奈さんだ。
「風の森」は爽やかで果実味があり、一般的ないわゆる日本酒のイメージとひと味違う、個性的な酒である。その独特の風味が、熱狂的なファンに好まれるようだ。

「S風の森」は、山麓蔵の周りに広がる棚田の米だけを使って酒造りを行っている。「風の森」でも長年使用している奈良県産の秋津穂という米だ。アルファベット“S”、には、SATOYAMA(里山)、SCENE(景色)、SANROKU(山麓)という3つの意味が込められている。山麓蔵のテラスに立つと、目の前には田んぼの緑が一面に広がり、麓に立ち並ぶ民家と、遠くに山々が見え、まるで絵本の中のようなのどかな里山の風景に、懐かしさと愛おしさがこみ上げてくる。この風景を眺めるだけでも、この地を訪ねる価値がある。
*1 米を磨く:玄米の表面を削って精米すること。磨きの度合いを精米歩合といい、大吟醸は精米歩合50%以下。米を半分以上削ることになる。みんなで一緒に無農薬で化学肥料を使用せずに米を育てたいと提案した
「S風の森」誕生の背景には、杉浦農園の杉浦英二さんの存在が大きくあった。この棚田で無農薬栽培の秋津穂米を育てている生産者である。

杉浦さんは大阪出身。もともと勉強はあまり好きなほうではなく、農業にも全く興味はなかったそうだが、生物が好きで、それを勉強できる近畿大の農学部に入った。しかし、卒業研究の課題でサツマイモの研究を始めたところ、その魅力に取り憑かれてしまったそうだ。
「サツマイモはタンパク質以外の完璧な栄養素を持っている食材で、これで世界中の人類を救えるかもしれないと思ったら、サツマイモってすごいなと。そこから農作物に少し興味が出て、これはちゃんと勉強したいと思い、大学院まで進みました」
大学院時代に、ある有機農家を訪ねた。今では有機農業のカリスマのような存在になっている人だそうだが、当時の杉浦さんの目には、豊かな生活が送れていない貧しい農家の家のように見えたという。自分には農家なんてとてもできないと思ったが、それでも自然と関わることがしたくて建設会社に就職し、環境コンサルタントを目指した。実際はダムの建設に関わり、全国各地の山の中の現場に滞在し、田舎暮らしの心地よさを実感した。
「空気がきれいでご飯がおいしい。だんだんと田舎暮らしの良さに惹かれていきました。以前に行ったあの有機農家は決して貧しいのではなく、土地のものを上手に利用して豊かな生活を営み、無駄なお金を使っていないだけだったんだと気付きました」
ダムの仕事は、その心地よい里山を失くしてしまうこともある。愛着を持った土地が失われていく姿を見て、杉浦さんはやりきれない気持ちになっていた。里山を再生したいという強い思いが生まれ、それが杉浦さんの原動力になった。バブル崩壊で会社の先行きも不安になり、もうそれなら自分が動くしかないと覚悟を決め、会社を辞めてこの土地の1枚の田んぼを借り、有機栽培をスタートした。
ある時油長酒造の先代の社長から声がかかった。彼らは地元で米を作ってくれる人を探していた。地酒は地元の米で造りたい、という思いがあったのだ。そこで杉浦さんを含めた3人の農家で、かつて奈良県で飯米として広く作られていた秋津穂の栽培が始まった。「酒米の山田錦とは異なる特徴があり、米の粒が大きく、おいしいお酒になるんですよ。酒蔵でも扱いやすく、僕らも育てやすい」
しかし現状では、里山はどんどん廃れていった。高齢化、過疎化などで年々田んぼを辞めていく人が増え、それらを引き受けて杉浦さんは手が回らなくなっていた。「働き過ぎて体も壊すし、もう農業は辞めようかと思ったこともありました。でも諦めたくない。新しく引き受けた田んぼは山の水だけで米を育てることができる素晴らしい場所。これを機に無農薬栽培にチャレンジしてみたいと思った。そして里山の土壌も水も今まで以上に守っていきたいという思いがこみ上げました。そこで油長酒造さんに無農薬栽培の提案に行ったんです。うちの田んぼにお客さんもみんな呼んで、作業を手伝ってもらえませんか。みんなでお米を育てて、その米でここだけのお酒を造りませんか、と提案しました。収量が減るかもしれないが、里山を守り伝えるため、無農薬の秋津穂を作らせてもらえませんか、と話をしました。油長酒造の山本さんからも、それではみんなで協力して無農薬にチャレンジしましょうと返事をいただきました」

全く初めてのことだったが、油長酒造が協力しながら、2017年から無農薬栽培をスタートした。初回は酒販店や風の森のファンが30人くらい集まり、次第に増えていった。SNSで募集をかけ、田植え、稲刈り、草刈りなどを行う。現在は稲刈り以外の援農も含めると延べ500人が集まるというからすごい人気だ。里山に興味を持って海外からこの場所に来る外国人までもが一緒に農作業に参加しているという。
「こんなに大きくなるとは全く予期していませんでした。7割がリピーターです。ありがたいです」
杉浦さんの里山を守り育てたいという思いが酒蔵を動かし、大きな輪を繋いでいく
杉浦さんのこの活動は大きなきっかけとなった。油長酒造では当初、イベントの一環として杉浦さんの米だけを使った特別なお酒を造っていた。中川さんも立ち上げ当初から参加し、酒販店への連絡や田んぼでの作業などを共に行った。
「無農薬栽培なので本当に大変で、草取りにも人手がいります。私も田んぼでの作業は初めてでしたが、この場所を何度も訪れるうちに、本当に素晴らしく、心癒される場所だなと感じ、どんどん好きになっていきました」

年々農作業のボランティアへの参加人数が増えていく様子を目の当たりにし、油長酒造でもこの輪をもっと広げて里山を次世代に繋げる取り組みを行いたい、という思いが強くなっていったという。杉浦さんとの信頼関係も深まった。この場所に酒蔵を作ろうという考えに至ったのは自然な流れだった。中川さんは自ら手を挙げ、今まで自身が酒蔵で培ってきた技術が何かの形で生かせるのであればと、山麓蔵の責任者を担うことになった。
中川さんは奈良出身。お酒好きの家庭に生まれ、お正月など特別な行事には日本酒を楽しそうに飲む両親の姿を見て育った。20歳になってやっと一緒に飲めるようになり、初めて飲んだお酒の味に衝撃を受け、そこから大好きになったという。「甘みや酸味、渋みなど、いろんな味の要素が一口で感じられる、こんな飲み物があるなんて衝撃的でした」
将来はお酒に関わる仕事がしたいと思った中川さんは、大学時代に酒屋さんの紹介で、埼玉県の神亀酒造で酒造りを経験した。2週間泊まり込みで朝3時から始まる大変な仕事だったが、楽しくて帰りたくなかったという。微生物に寄り添った酒造りに感銘を受け、これは一生続けたい仕事だと思ったそうだ。
「でも女性の蔵人は当時まだほとんどいませんでしたし、私は醸造学部ではなかったので、なかなか就職先が見つかりませんでした。そんな時にたまたま油長酒造の求人を見つけて、風の森は出身地である奈良県で造られ、魅力を感じていたお酒ということもあり、履歴書と手紙をしたためて応募しました。自分がこれからの人生でお酒造りに本気で打ち込みたいという思いを一生懸命伝えました。やっぱり私はお酒を造ることにどうしても興味が尽きなかったんです」
そんな中川さんが中心となった山麓蔵。建築の許可、作業導線を考えた機器の配置など、立ち上げには中川さんも一から全て関わったという。少人数でも、力のない女性だけでも効率よく作業が出来るよう、工夫を凝らした。今までは酒蔵の中で黙々と麹や酒に向き合っていた中川さんだが、建築家や生産者、酒販店など、多くの外部の人々とコミュニケーションを取る機会が増え、自身の経験値も格段に上がったそうだ。
「いろんな人が関わり合って、酒蔵が成り立っているということを改めて実感しました。もっとこの輪を広げて行きたい。自分もまだまだ精進しなければと思います」
農家、酒蔵、 酒販店、消費者が輪になった「風の森里山コミュニティ」
山麓蔵では、目の前の棚田にある秋津穂米だけを使い、農家ごとに1つのタンクで酒を醸造する。2024年よりリリースを開始し、現在は無農薬栽培を行う杉浦さんの米と、特別栽培米の基準に則った減農薬栽培を行う静間幸一さんの米で酒を造っているが、今後農家は少しずつ増える予定もあるそうだ。

葛城山麓は米作り、農業に恵まれた土地である。山から湧き出る水を利用して米を育て、精米はほとんどせず(食用米程度)、米のエネルギーを余すことなく反映した酒造りを志している。そして奈良は日本の清酒発祥の地でもある。醸造は風の森の特徴である長期低温発酵(*2)に、地域の歴史と文化を継承する奈良の古い伝統技法(*3)を掛け合わせ、この土地でしか造れない、本物の地酒が醸されている。
さらに「S風の森」が特徴的なのは、「風の森里山コミュニティ」というユニークな取り組みと、「未来酒度」という新しい価値基準である。
「風の森里山コミュニティ」とは、秋津穂米の生産農家の収入向上と、農業や棚田を守り、「里山を100年先へつなぐ」という目的のために、農家、酒蔵、 酒販店、消費者を輪のように繋ぎ、お互いに理解を深めて協力し合える仕組みである。農家はこの土地ならではの良質な米を環境に配慮した方法で栽培し、里山を保全する。酒蔵はその米を使ってこの土地の魅力を存分に表現した酒「S風の森」を造る。酒販店は農家から直接米を購入することで当事者意識を深め、山麓蔵で醸した「S風の森」のストーリーを伝えて販売する。消費者は「S風の森」を購入し、おいしく飲むことで、里山の保全に協力することができる。購入金額のうち1本あたり50円が「里山基金」として寄付される仕組みだ。
この考え方に賛同する人たちに集まってもらい、みんなにこの土地への愛着が生まれ、その思いが広がって行くことを願っている。

「まだ先進的な取り組みかもしれませんが、これからの時代の酒蔵にとって必要なことのひとつではないかと思っています。始めた当初は一般の方に理解してもらうのは難しいかと思っていましたが、良い取り組みですねと共感していただける機会も増えています」と中川さん。
杉浦さんは2024年にNPO法人「さとやまから」を立ち上げた。里山の保全と再生のために今まで以上に積極的に活動し、関連するボランティアや地域との連携、ファームステイなどの自然体験を行っている。「これが本当にやりたかったこと。自分は農作物を作る農家ではなく、里山を守るために農業をやっているといったほうが正しいです。日本の里山は世界に誇れると思う。例えば普段会社で働いているような人がうちにきて、住み込みで一緒にご飯を食べて農作業をしていると、いろんなものが見えてくる。彼らが抱える悩みを聞いたりして、里山が人生に役立つこともあるなあと。ここでの景観や体験が、彼らに何かいい影響を与えることもできるんじゃないかと思うんです」
杉浦さんは今後、同じ農業に関わる人たちとの横の連携を深めたいと思い、勉強会等を開催している。この土地の集落の人々とも向き合い、村に貢献できたらと思っている。
「自分は本来よそ者なので、今までこの土地の人々の中にはなかなか入って行けなかった。でも酒蔵ができたことで仲介してもらえるようになり、NPOとして何か協力できることはしたいと思っています」
*2長期低温発酵:もろみ期間を長く取り、じっくり時間をかけて発酵させることで、米本来の味や香りを酒の中に封じ込める。 *3 奈良の伝統技法:室町時代に奈良の正暦寺で生み出された、天然の乳酸菌から酒母(スターターとなる発酵水)をつくる技法を応用。また、室町時代に奈良の寺院で行われていた、夏季醸造の高温発酵の技法も採用し、溶けにくい低精白の秋津穂をしっかりと溶かす。「未来酒度」が未来の日本酒の在り方を変える
もうひとつの取り組み「未来酒度」(*4)とは、日本酒の新しい価値基準である。今まで日本酒の分かりやすい指標といえば精米歩合。米を磨けば磨くほど価値が上がり、値段も高くなる。しかし、杉浦さんのように農家が丹精込めて育てた米を、できる限り全部使い切ってこの土地にしか出せない味を表現したいという「S風の森」では、それとは全く別の発想で、新しい価値基準を設けた。酒造りの技術やおいしさを踏まえた上で、里山や農業の未来への貢献度が評価の基準となっている。
・環境負荷の少なさ … 水、電力の種類、農薬化学肥料の使用量など
・田んぼの地力 … 田んぼやその土中の生物の多様性など(土分析による数値化)
・地域への貢献度 … 農家への適正な利益配分や、里山への理解や寄付など
*4 未来酒度の詳細:https://kazenomori-sake.jp/sightofstars/
上記の要素を総合的に判断し、その「未来酒度」をボトルに表記。3つまでの★の数でランクを表している。「S風の森」は購入金額のうち1本あたり50円を「里山基金」として寄付することができるが、それに加えて一つ星だと減農薬栽培、二つ星は無農薬栽培によって原料となる秋津穂が栽培されていることを示し、環境負荷を減らす取り組みとして評価される。
「今は二つ星までの商品がありますが、今後は最高ランクとなる三つ星のお酒を目指しています。それは私たちと農家さんだけではなく、酒屋さんやお客様も一緒に取り組んでいただけるような要素を含んだお酒にしたいと思っています。みんなで新たなお酒の価値を考えるような取り組みにしたい」と中川さんは話す。
山麓蔵では、環境保全をより明確なデータとして提示するため、土壌調査を行っている。社会課題解決をコンセプトとする企業「株式会社UPDATER」が取り組む土壌の保全・再生事業「みんな大地」が土壌診断を行い、「未来酒度」を裏付けるデータに協力している。

2024年9月に最初の土壌診断を行い、土壌微生物の豊かさ(一般生菌数)や、地球温暖化防止への貢献(炭素貯留量)などを棚田の3ヶ所で調査。山に一番近い西地区の杉浦さんの田んぼは一般生菌数720万個(*5)という圧倒的に高い結果になったそうだ。また炭素貯留量は、調査した3カ所とも地域標準と比較して1.4~1.6倍ほど多く、環境への貢献度も高いことが分かった。
*5「みんな大地」がこれまでに土壌診断を行った全国9カ所の水田のうち、一般生菌数が700万個以上は2カ所のみ。今回の取材時には2回目の土壌診断が行われた。横浜国立大学・福島大学名誉教授で、新しい農業の形を調査しつつさまざまな実践もしている土壌生態学者の金子信博さん監修のもと、水生ミミズの生息調査など、さらに詳しい土壌調査が行われた。葛城醸造所では、土壌や生物多様性の調査に積極的に協力しており、中川さん自身も土壌の様子を大まかに把握できるよう、金子さんに熱心に質問をし、一緒に棚田をまわって判断の仕方を学んでいた。金子さんによると「トロトロ層」と呼ばれる、見た目にもトロトロした粒子の細かい泥状の有機物層があると、地力も高く、雑草が生えにくいそうだ。

今回の調査結果も、今後の「S風の森」の未来酒度に反映される。酒蔵や酒販店、そして消費者が「S風の森」を語る上でもより説得力のあるストーリーになる。
「杉浦さんが土作りを意識して長年続けてきた無農薬栽培の成果を、分かりやすく数値で捉えることができるので、私たちもお客様に説明しやすいです。今後もこの取り組みを長く続けていきたいと思っています」と中川さん。

地域のために、着実に進化を続ける「S風の森」は今後どんなお酒になっていくのか。ひたむきで熱量ある中川さんや杉浦さんの言葉に、これからの期待が高まるばかりである。
